釣魚島は釣魚台、釣魚嶼、釣魚山とも呼ばれ、北緯25°44.6′、東経123°28.4′に位置しており、長さは約3641メートル、幅は約1905メートル、面積は約3.91平方キロメートル、最高海抜は約362メートルである。北部は比較的平坦で、東南側は山が険峻である。東側の岩礁は尖塔の如く、中央の山脈は東西に横断している。釣魚島はツバキ、シュロ、ウチワサボテン、イソマツ及び貴重な漢方薬となる素材を豊富に産出するだけでなく、数多くの海鳥が生息しているため、「花鳥島」といった美称をも持っている。
釣魚島周辺海域では魚介類の資源が豊富で、中国漁民の伝統的な漁場でもある。それ以外にも石油と天然ガス資源も豊富である。中国は現在既に釣魚島とその上にある2つの山、5つの岬及び4つの渓流の標準名称、並びに釣魚島周辺海域の1つの海湾、2つの水道、1つの停泊地と周辺の14の小島の標準名称を公表した。
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黄尾嶼は釣魚島の東北約27キロに位置しており、経緯度は北緯25°55.4′、東経123°40.9′である。また、長さは約1293メートルで、幅は約1102メートルで、面積は約0.91平方キロメートルで、同海域で二番目に大きな島であり、最高海抜は約117メートルである。黄尾嶼は円形に近い死火山であり、中央が高く、周辺が低く、東側の断崖は険峻であり、断崖には非常に壮観な直立型の岩石がある。島の中央には死火山の噴火口のような窪地が見え、島の上ではシュロと低木が広範囲に分布しており、海岸辺には大きな火山岩が散在している。島には鳥が多く生息しているため、「鳥島」とも呼ばれる。
わが国は現在すでに黄尾嶼とその上にある1つの山及びその周辺にある20の小島の標準名称を公表している。
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赤尾嶼は釣魚島及びその付属島嶼の最東端に位置しており、経緯度は北緯25°55.3′、東経123°33.5′で、島は不規則な三角形となっており、釣魚島から約110キロメートルの距離がある。長さは約484メートル、幅は約194メートル、面積は約0.065平方キロメートルで、最高海抜は約75メートルとなっており、赤尾嶼は尖塔の形を呈している。島の海岸は基岩海岸であり、崖は急峻で、島の北側と西側には多くの岩礁が散在している。
我が国は現在すでに赤尾嶼とその上にある1つの山、1つの海食柱及びその周辺にある10の小島の標準名称を公表している。
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北小島は釣魚島の東約5キロに位置しており、経緯度は北緯25°43.8′、東経123°32.5′となっている。長さは約1030メートル、幅は約583メートル、面積は約0.33平方キロメートル、最高海抜は約125メートルである。島は平行四辺形を呈しており、西北―東南方向に長引いている。
我が国は現在すでに北小島とその上にある2つの山及びその周辺にある3つの小島の標準名称を公表している。
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南小島は北小島の東南に位置しており、釣魚島から約5.5キロ離れている。経緯度は北緯25°43.4′、東経123°33.0′となっており、長さは約1147メートルで、幅は約590メートルで、面積は約0.45平方キロメートルで、最高海抜は約139メートルとなっている。島は楕円形を呈しており、東南側の傾斜度が比較的に大きく、中央の大部分は平地となっている。島の上では蛇が多く生息しているため、「蛇島」とも呼ばれる。 
我が国は現在すでに南小島とその上にある1つの山及びその周辺にある11の小島の標準名称を公表している。
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北嶼は釣魚島の東北約6キロに位置しており、経緯度は北緯25°46.9′、東経123°32.6′となっている。長さは約193メートルで、幅は約142メートルで、面積は約0.02平方キロメートルで、最高海抜は約24メートルである。島は三角形を呈しており、西部の地勢は比較的平坦である。
我が国は現在すでに北嶼とその周辺にある4つの小島の標準名称を公表している。
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南嶼は釣魚島の東北約7.4キロに位置しており、経緯度は北緯25°45.3′、東経123°34.0′となっている。長さは約170メートルで、幅は約75メートルで、面積は約0.007平方キロメートルで、最高海抜は約4.8メートルである。島は三日月の形を呈しており、植物は見られない。
我が国は現在すでに南嶼の標準名称を公表している。
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飛嶼は釣魚島の東南約1.5キロに位置にしており、経緯度は北緯25°44.1′、東経123°30.4′となっている。長さは約63メートルで、幅は約33メートルで、面積は約0.001平方キロメートルで、最高海抜は約2メートルである。島は海老の尾の形を呈しており、西南側の山が急峻で、島に植物は見られない。
我が国は現在すでに飛嶼と飛仔嶼の標準名称を公表している。
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​中国釣魚島デジタル博物館は序庁と三つの展示室からなる。展示内容は歴史写真、映像資料、文献資料、法律文書、実物シミュレーション、各種模型、アニメストーリー、新聞記事、学者の論文などが含まれている。また、解说員、館長問答などのインタラクティブな段階設けられている。
 
 

釣魚島に関する中国政府の基本的主張

重要な史料

歴史的証拠

1403

1534

1556

1561

1561

1579

1606

1663

1683

1718

1800

1808

順風相送

『順風相送』は明朝初期に成書したもので、中には釣魚島に関する記載が明らかに施されている。また、永楽年間(1403-1424)に、中国政府関係者が南海大遠征の航海経験に基づき幾度も古写本の校訂を行っていた。現在イギリスオックスフォード大学ボドリアン図書館(Bodleian Library)に蔵書されている『順風相送』は、明朝の万歴年間の写本である。『順風相送』では、中国の海上航路及び経過した島嶼が記載されており、その中には釣魚嶼(即ち釣魚島)、赤坎嶼(即ち赤尾嶼)等の島嶼の名称が明確に記されている。この記録により、早くも十四、十五世紀に中国は既に釣魚島を発見且つ命名していたことが証明される。 詳細を見る>>

使琉球録

1534年(明・嘉靖13年)、時に陳侃は吏科左給事中を務め、琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。陳侃の著作『使琉球録』には、「釣魚嶼を過ぎ、黄毛嶼を過ぎ、赤嶼を過ぎ、目に暇を接せず……古米山が見え、乃ち琉球に属する者なり。夷人は舟におきて鼓舞し、喜びて家に達す。」とある。この一文に記されているように、古米山(即ち久米島)に至って琉球領内に入国したことになる故、釣魚島は琉球に属さないことが明らかである。 詳細を見る>>

日本一鑑

1556年(明・嘉靖35年)、鄭舜功は明朝政府に日本に行き、考察するよう命じられ、日本に派遣された後、『日本一鑑』を撰した。書中に描かれている「滄海津鏡」の図には、釣魚嶼が含まれている。 詳細を見る>>

使琉球録

1561年(明・嘉靖40年)、時に郭汝霖は刑科給事中を務め、琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。同じく、時に行人司行人を務めていた李際春は、琉球の冊封副使に任命され、郭汝霖と共に琉球に遣わされた。郭汝霖、李際春は『使琉球録』を共著し、その中の「使事紀」には、「閏五月一日釣嶼を過ぎ、三日赤嶼に至る。赤嶼は、琉球地方を界とする山なり。更に一日の風にて、即ち姑米山を望むべし。」とある。この一文は、赤嶼(即ち赤尾嶼)は中国と琉球の分界であることを証明している。 詳細を見る>>

籌海図編

1561年(明・嘉靖40年)、明朝東南沿海駐屯軍最高司令官胡宗憲が監修し、地理学者鄭若曽が編纂した『籌海図編』一書には、明朝の海防と管轄の範囲に入る沿海の諸島嶼が記されている。中でも、巻一の『福建沿海山沙図』には釣魚島、黄尾嶼、赤尾嶼等が編入されており、これらの島嶼が明朝に既に中国の海防と管轄の範囲に含まれることを証明している。 詳細を見る>>

使琉球録

1579年(明・万歴7年)、時に蕭崇業は戸科給事中を務め、琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。同じく、時に行人を務めていた謝傑は、琉球の冊封副使に任命され、蕭崇業と共に琉球に遣わされた。蕭崇業、謝傑は『使琉球録』を共著し、その中の「使事紀」には、「三十日、黄茅を過ぐ。閏五月一日、釣魚嶼を過ぐ。三日、赤嶼に至る。赤嶼は、琉球地方を界とする山なり。更に一日の風にて、即ち古米山を望むべし。」とある。この一文においても、赤嶼(即ち赤尾嶼)は中国と琉球の分界であることを証明している。 詳細を見る>>

使琉球録

1606年(明・万歴34年)、夏子陽は琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。夏子陽の著作『使琉球録』には、「午後、釣魚嶼を過ぐ。翌日、黄尾嶼を過ぐ。是の夜、風急なり浪狂なり、舵は次々折る」、「水は黒水を離れ滄水に入り、必ずや是中國の界なり」とある。 詳細を見る>>

使琉球記

1663年(清・康熙2年)、張学礼は琉球の冊封正使に任命され、琉球に遣わされた。張学礼の著作『使琉球記』は、日記形式で出使の終始を記録したものである。『使琉球記』には、「水の色に異り有り、深き青は藍の如し。舟子曰く:大洋に入るや。頃くして、一線の白水有り、南北を横に亘る。舟子曰く:分水洋を過ぐや、此は天の中外の界とする所以なり」とあり、琉球航路における中外の界が明確に記されている。 詳細を見る>>

使琉球雑録

1683年(清・康熙22年)、時に汪楫は翰林院検討を務め、琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。汪楫の著作『使琉球雑録』には、「……乙卯の針、四更、船、彭隹山に至り、単卯の針、十更、船、釣魚嶼を取らえ、又、乙卯の針、四更、船、黄尾嶼を取らえ、又、単卯の針、五更、船、赤嶼を取らえ、単卯の針、五更、船、枯米山を取らえ、又、乙卯の針、六更、船、馬歯山を取らえ、直ちに琉球に到る。」、「……何無く、遂に赤嶼に至り、未だに黄尾嶼は見えず。 詳細を見る>>

中山伝信録

1718年(清・康熙57年)、徐葆光は琉球の冊封副使に任命され、命令により琉球に遣わされた。康熙帝はより明確に中国と琉球の境界線を画定するため、徐葆光に天文に優れる書生を率いさせ、琉球の海図測定を命じた。後に完成した『中山伝信録』の附録図では、琉球諸島の名称並びに位置が正確に記されている。更に、中では「姑米山は琉球西南方の界の上の鎮山なり」と注が付けられている。徐葆光の境界線画定の最大の意義は、これが中国、琉球双方が認定する境界線であることにある。 詳細を見る>>

使琉球記

1800年(清・嘉慶5年)、時に李鼎元は内閣中書舎人を務め、琉球の冊封副使に任命され、命令により趙文楷と共に琉球に遣わされた。李鼎元の著作『使琉記』は日記形式で記されており、出使の終始に関する詳細が記されている。書中では、釣魚島、赤尾嶼等の島嶼について詳しく記載されている。 詳細を見る>>

続琉球国誌略

1808年(清・嘉慶13年)、時に斉鯤は翰林院編修を務め、琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。時に費錫章は工科給事中を務め、琉球の冊封副使に任命され、斉鯤と共に琉球に遣わされた。斉鯤、費錫章が共著した『続琉球国誌略』には、「十三日天明、釣魚台見え、山の南より過ぎ、仍ち、辰卯の針、行船して二更、午刻赤尾嶼見ゆ。又、行船して四更五、溝を過ぎて海を祭る。」と記されている。 詳細を見る>>

地図証拠

万里海防図(一部)

『万里海防図』は1561年(明・嘉靖40年)に作成されたもので、『鄭開陽雑著』の巻八に収録されている。図面中には、中国の海防区域内に釣魚嶼、黄尾嶼と赤嶼等が含まれることが明確に記されている。 詳細を見る>>

福建沿海山沙図

『福建沿海山沙図』は1562年(明・嘉靖41年)に作成され、『籌海図編』の巻一に収録されている。図面中には、中国の海防区域内に釣魚嶼、黄尾嶼と赤嶼等が含まれることが明確に記されている。 詳細を見る>>

琉球過海図

『琉球過海図』は、1579年(明・万歴7年)に冊封使蕭崇業が編纂した『使琉球録』の中に収録されている。図面中には、冊封使団が琉球へ赴く途中で釣魚島等の島嶼を通過していることを示している。 詳細を見る>>

針路図

右の『針路図』は、1721年(清・康熙60年)に冊封使徐葆光が作成した『中山伝信録』に収録されている。図面中には、中国と琉球間の航路が描かれており、釣魚島及びその付属島嶼が中国から琉球へ赴く途中で必ず経過する地であることを示している。 詳細を見る>>

針路図

右の『針路図』は、1756年(清・乾隆21年)に冊封使周煌が編纂した『琉球国誌略』に収録されている。図面中には、釣魚島及びその付属島嶼が中国から琉球へ赴く航路上に位置していることを示している。 詳細を見る>>

航海針路

1762年にポルトガル人が作成した『航海針路』において、三王島(釣魚島)と台湾、漳州、寧波等を同一の表に記入されている。また、針路の配列順序並びに経緯度の対応状況からも、釣魚島と台湾等が中国に属することが明らかである。この針路表では、日本に属するものは「日本(Japaó)」と明確に表記されている。 詳細を見る>>

坤輿全図

『坤輿全図』は、フランスイエズ大会の蒋友仁(Michael Benoist)が清朝政府に委任され、康熙年間の『皇輿全図』を基礎に修正及び増訂したものであり、1767年(清・乾隆32年)前後に完成したと思われる。『坤輿全図』は最新の測図法を基に「好魚須」、「歓未須」、「車未須」等の島嶼を増補している。考証したところ、その三つの島の名は正に「釣魚嶼」、「黄尾嶼」、「赤尾嶼」の閩南方言の発音に漢字をあてたものであることが判明した。『坤輿全図』は乾隆皇帝が欽定した公式管轄地図であり、当時釣魚島及びその付属島嶼はすでに清朝の版図内にあることを明確に示している。 詳細を見る>>

最新中国地図

『最新中国地図』(A new map of china)は、1801年にジョーン・カリー(John Cary)によって描かれたイギリス政府監修の地図である。ジョーン・カリー(1754-1835)はイギリスの製図家であり、その製図した地図の正確さから後世に推賞されている。図中の台湾島(Tai-ouan)東北方向に沿い、近方より遠方にかけてPon-kia(即ち「彭家嶼」)、Hoan-pin-su(即ち「花瓶」)、Hao-yu-su(即ち「釣魚嶼」)、Hoan-oey-su(即ち「黄尾嶼」)、Tshe-oey-su(即ち「赤尾嶼」)等の島嶼が明確に記されており、いずれも中国の閩南方言で命名されている。 詳細を見る>>

東インド、中国、豪州周辺の航海指南

1816年にロンドンで出版された『東インド、中国、豪州周辺の航海指南』では、台湾に属する島嶼及びその地理的範囲について明確な記載が施されており、各島の経緯度も記されている。その内容に記されている台湾に属する範囲には、Tiaoyu-su(釣魚島)やHoapin-su(花瓶嶼)等が含まれている。 詳細を見る>>

皇朝中外一統輿地総図

『皇朝中外一統輿地総図』は湖北巡撫胡林翼の提案で描いたものであり、1863年(清・同治2年)に湖北巡撫衙門(役所)によって刊行されている。図面中には、釣魚島及びその付属島嶼が中国版図に属することを明確に示している。 詳細を見る>>

沖縄県管内全図

1895年に日本で出版された『沖縄県管内全図』では、沖縄県所属の島嶼の地理的範囲が明確に記されている。図面中に、久米島が琉球諸島西南方面の境界であることが明記されており、釣魚島及びその付属島嶼は沖縄県の管轄内に含まれていないことが一目瞭然である。 詳細を見る>>